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1910
1月23日: ベルギーのリベルシーにて、バイオリンやギター、ピアノを演奏して巡回するミュージシャンであった父Laurence “Négros” Reinhardt(1884–1958)と母Jean Eugène Weiss(1882–?)の間にJean “Django” Reinhardtが誕生した。
1912
3月1日:弟のJoseph “Nin-Nin” Reinhardt(1982年没)がパリで産まれた。
1914
一家でフランスを放浪する間に、Djangoはバイオリン演奏を習得した。第一次大戦の間は一家でアルジェリアに避難した。
1919
父Laurenceは DjangoとJosephをパリのジプシー野営地、Barrière de Choisyに連れてきた。
1922
最初のギターバンジョー(6弦バンジョー)をDjangoは入手した。
1924-1925
アコーディオン弾きのVétese GuérinoやJean Vaissade、Maurice Alexanderらと、パリのダンスホールにて、Djangoはプロのキャリアを開始した。
1928
5月〜6月:Maurice Alexanderと人生初のレコーディング。
6月20日:Jean Vaissadeとレコーディング。
夏:Florine “Bella” Mayerと結婚した。
10月26日:住居にしているキャラバンの火事で、Djangoは右半身と左手に大やけどを負った。パリの第10地区にあった Lariboisière病院に妻と一緒に入院した。
冬:Saint-Louis病院に転院した。
▶ Django’s Recording Session in 1928
1929
1月:DjangoとBellaの間に息子Henriが産まれた。彼は “Lousson”の愛称で知られている。 (1992年没)
1930
4月:Djangoは退院し、18ヶ月のリハビリを経て、左手薬指と小指の萎縮が残った状態にもかかわらず、演奏能力を回復した。ピアニストStéphane MouginとパリのナイトクラブAcaciasで演奏した。
夏:南フランスに新しい恋人Sophie “Naguine” Ziegler(1911–1971)と旅に出た。トゥーロンで弟と合流し、写真家で絵描きのÉmile Savitryに会った。Émileは、Duke EllingtonやJoe VenutiとEddie Lang、Louis Armstrongの新譜をDjangoとJoséphに聴かせた。またアコーディオンを弾いていたLouis Volaともここで出会った。
1931
春:トゥーロンのLidoに出演中のLouis Vola楽団と共演。
5月28日:VolaのLidoオーケストラのレコーディングに参加。
夏:Volaのバンド「Vola et ses Gars」が、カンヌのPalm Beachカジノに1シーズン雇われた。
12月22日〜翌年4月:パリのフォンテーン通りのキャバレーLa Boîte à Matelotsで演奏するVolaのオーケストラに参加したことで、Jean Sablonを含むパリ中の文化人がDjangoを聴きに来た。
▶ Django’s Recording Session in 1931
1932
1月:サックス奏者André Ekyanと演奏しているバイオリニストStéphane Grappelliを探しに、モンパルナスのクラブCroix du Sudに出掛けた。
2月〜4月: シャンゼリゼ通りにあったキャバレーEmbassyでは、 Vola et ses Garsが、トランペット奏者Arthur Briggsのバンドと交替した。
5月〜8月:カンヌのPalm BeachでVola et ses Garsは新しい契約を得た。Henri Diamant-Berger監督作品映画Clair de LuneはVola et ses Garsが全曲サウンドトラックを録音し、少しだけ出演もしている。Djangoの最古の映像だ。
10月〜翌年7月:パリのキャバレーLa Boîte à MatelotsでVétese Guèrinoのオーケストラで演奏した。
1933
3月14日〜4月4日:Jean Bastiaと彼の息子によるオペレッタ「Dix-neuf ans」からの数曲を、Eliane de Creus、Jean Sablon、あるいはそのデュオが歌うレコーディングに参加した。
3月19日:Guérino et son orchestre musette de la Boîte à Matelotsのレコーディング・セッション。ギターソロはBaro Ferret。
3月29日:パリのドヌー劇場にて、オペレッタ「Dix-neuf ans」の299回目公演にて、Djangoはパリ風のパフォーマンスのうちのいくつかに加わった。
7月27、29日、8月1日:Duke Ellington楽団がパリのSalle Pleyel劇場で公演した。
12月18日:ジャズ音楽愛好会であるフランス・ホットクラブが主催の第12回コンサートにDjangoが加わることが予定されたが、出演できなかった。
▶ Django’s Recording Session in 1933
1934
1月16日:Grappelli、 Michel Emer(ピアノ)と共に、Jean Sablonのレコーディング・セッション。
2月:レストランLes Champs-Élyséesにて、ピアニストChristian Faureのオーケストラで1ヶ月演奏した。
2月4日: Frank “Big Boy” Goudie(クラリネット)、Arthur Briggs(トランペット)、Freddy Johnson(ピアノ)とのセッションで、Salle Lafayette劇場で行われたフランス・ホットクラブ主催コンサートに初出演。
2月6日:バイオリニストMichel Warlopのオーケストラに加わって、歌手Germaine Sablonのレコーディング・セッションに参加。Jean Sablon(唄)、André Ekyan(サックス)、Alec Siniavine(ピアノ)と共に、 ナイトクラブRococoナイトクラブと、出演契約した。
3月3日: 作曲家のAl RomansやAndré Ekyan(サックス)、 Frank “Big Boy” Goudie(クラリネット)と共に、パリ中央大学のホールで演奏した。
3月末:Mont Genèvreで行われたJean Sablonのコンサートに屋根無しのレーシングカーで駆け付けて出演。ただし、遅刻し終演間際だった。
4月2日から1週間:ニースのCasinoにて、Josephine Bakerのコンサートの前座として、Jean Sablonと共に出演。
4月11日:パリでJean Sablonとのレコーディング・セッション。
4月12日:Jean Sablonのツアーで、André Ekyan(サックス)、 Alec Siniavine(ピアノ)と共に、ル・ブルジェ空港からロンドンへ初めての飛行機旅行をした。この4人でピカデリーのナイトクラブMonseigneurで数日公演したり、BBCのラジオ放送も行った。
7月29日:フランス・ホットクラブの秘書Pierre Nourryが、ホットクラブのコンサートに来ていた有名な興行主のIrving MillsにDjangoを紹介しようとしたが、DjangoとJosephは予定をすっぽかして見つけられなかった。
8月:Louis Armstrongがパリに4ヶ月滞在した。
9月末〜10月初め:DjangoとJosephはLouis Armstrongに演奏を聴いて貰おうとしたが、Louisはいろいろ忙しいので、ホットクラブ秘書NourryはDjangoとJosephの兄弟にベーシストのJuan Fernandezを加えたトリオで演奏を録音した。
10月12日:École Normale de Musiqueで開かれたフランス・ホットクラブ主催のArthur BriggsオーケストラのコンサートにDjangoとJosephがフィーチャーされた。
11月:DjangoとGrappelli、そしてギタリストのRoger Chaputが加わったLouis VolaのオーケストラがシャンゼリゼのHôtel Claridgeで演奏した。休憩時間の間、 DjangoとStéphaneが即興演奏に興じ、それにChaputとVolaが加わりストリング・ジャズ・カルテットの構想が持ち上がった。このカルテットはモンマルトルのChez FlorenceとLa Brasserie l’Alsaceでリハーサルを行った。
おそらく11月15日:カルテットはJosephを加えてクインテットになった。フランス・ホットクラブ五重奏団と呼ばれる前のこのクインテットの初レコーディング・セッションがStudio Albertで行われた。この録音は後に“Delaunay’s Jazz”という名前で知られることになる。
12月2日:パリのÉcole Normale de Musiqueで、まだ名前の無い“Jungo” Reinhardtのクインテットが初コンサートを行った。
12月8日:DjangoとStéphaneは、Arthur Briggs(トランペット)、Booker Pittman(クラリネット)と共に、チューリッヒのイタリアン・ボールで演奏した。
12月10〜12日:クインテットはUltraphoneレーベルのレコーディング・セッションを行った。
12月中頃:Jack Hyltonオーケストラと共に、テナーサックス奏者のColeman Hawkinsがパリにやって来た。
▶ Django’s Recording Session in 1934
1935
2月8日:クインテットがフィーチャーされた初のラジオ放送。
2月16日:École Normale de Musiqueで二度目のコンサートに出演し、クインテットは正式にフランス・ホットクラブ五重奏団を名乗った。
2月20日:フランス東北部のナンシーでクインテットのコンサート。
2月22日:シャンゼリゼ劇場で行われた、雑誌La Vie Est Belle主催の夜会に、Ultraphoneレーベル提供でクインテットが出演。
2月23日:クインテットがSalle Pleyel劇場でコンサート前半を務めた。後半はColeman Hawkins。
2月〜3月:DjangoとStéphaneは Arthur Briggs楽団に加わり、Stage Bで演奏した。(Stéphaneはピアノも弾いた)
3月2日:Coleman Hawkinsのレコーディング・セッションに、Michel Warlop(バイオリン)、Stéphane Grappelli(ピアノ)と共に参加。
4月〜5月:Villa d’Esteに出演中のトランペットと唄を演るFreddy TaylorのバンドにDjangoが参加。
5月:クインテットの英国でのデビューとなるUltraphoneレーベルのレコーディング。(リリースはOrioleレーベル)
6月4日:Jazz-Club de France主催のクインテットのコンサートがSalle Wagram劇場で行われた。
6月13日:Salle Pleyel劇場で、歌手Jean Tranchantと共に出演。興行主のIrving Millsはそのステージを観たが、バンドのふざけた態度に憤慨した。
7月5日:Salle Pleyel劇場でクインテットのコンサート。
7月中旬:フランス南西部サン・ジャン・ド・リュズのMarco楽団でDjangoは演奏した。
9月末〜10月初旬:クインテットのレコーディング・セッションがあり、Jacques Canetti監修「Stephane Grappelli and his Hot Four」名義でDeccaレーベルからリリースされた。
10月中旬:ナイトクラブAux Nuits Bleuesでの一ヶ月のクインテット出演契約が始まった。
11月21日:フランス・ホットクラブ主催のÉcole Normale de MusiqueでのBill Coleman(トランペット)のコンサートにDjangoが客演。
11月25日:ホットクラブ秘書Nourry監修で、Django、Bill Coleman(トランペット)、Garnet Clark(ピアノ)のレコーディング・セッションがGramophoneレーベルで行われた。
12月2日:École Normale de Musiqueでクインテットのコンサート。
▶ Django’s Recording Session in 1935
1936
1月29日と31日:スペインのバルセロナにて、クインテットの初国外コンサート。
3月28日:Salle Pleyel劇場で行われた、「ホットジャズの現状」という催しで、Hugues Panassiéによるレクチャーの後、Djangoはバンドに加わって演奏した。
5月4日:Gramophoneレーベルに、歌手Freddy Taylorを擁したクインテットが初録音。
6月:Francis Dayにより、DjangoとStéphaneのオリジナル曲の「Are You in the Mood?」と「Oriental Shuffle」が初出版された。
6月5日:École Normale de Musiqueでクインテットのコンサート。
11月中旬〜翌年4月中旬:Djangoと妻のNaguineはパリを離れてフランス中を放浪。
▶ Django’s Recording Session in 1936
1937
4月21日〜27日:Gramophoneレーベルの新シリーズとしてクインテットで録音。
4月28日:Charles Delaunayが新しく立ち上げたSwingレーベルの最初のリリースとして、Hawkins、Ekyan、Benny CarterとAlix Combelleがサックスで加わったColeman Hawkins and his All Star Jam BandのレコーディングにDjangoは伴奏で参加。
5月: 「Bricktop」の名で知られる歌手Ada Smithと共に、ナイトクラブBig Appleで数週間の出演契約が始まった。
5月29日:クインテットが英国BBCのラジオ放送で演奏。
6月13日:米国CBSネットワークのラジオ番組「Saturday Night Swing Sessions」で、クインテットの演奏がBig Appleから生中継された。
7月7日:Djangoは、Bill Coleman(トランペット)、Dickie Wells(トロンボーン)を含むTeddy Hill楽団のメンバーとSwingレーベルに録音。
7月10日:オランダのスヘフェニンゲンのKurhausでクインテットのコンサート。
9月29日:バイオリニストEddie SouthとSwingレーベルに録音。
10月13日:Garland Wilson(ピアノ)とUna Mae Carlisle(唄)が別々に共同出資してBenny CarterのLe Bœuf sur le Toitの出演契約が始まった。Djangoは両方のグループに参加して演奏した。
10月20日:Salle Gaveau劇場でクインテットのコンサート。24ページの特製ブックレットは完売し、バンドの3周年を祝った。
10月31日:ベルギーのブリュッセルでクインテットの初コンサート。
11月6日:オランダのハーグでクインテットのコンサート。
11月8日:オランダ、ヒルフェルスムのVARAラジオのスタジオでクインテットのコンサート。
オランダ滞在中、アムステルダムでDjangoはColeman Hawkinsと共演した。
11月12日:英国Deccaレーベルは、DjangoとStéphaneに12ヶ月間に6回のレコーディング・セッションのオファーを打診。(12月1日から始まった。)
11月23日と25日:Eddie SouthとStéphane Grappelliによる「バッハの2台のバイオリンのための協奏曲第一楽章変奏」のレコーディング・セッションに参加。(Swingレーベル#18としてリリースされる。)
▶ Django’s Recording Session in 1937
1938
1月7日:BBCのラジオ番組「Boulevard Rhythm」でJ. P. Hollowayがクインテットを紹介。
1月29日:Delaunay、Nourryと共に、クインテットが渡英。
1月30日:ロンドンのケンブリッジ劇場でクインテットのコンサート。
1月31日:クインテットでDeccaレーベルのレコーディング・セッション。
2月1日:クインテットがパリに戻る前に、DjangoとStephaneのデュオによるDeccaレーベルのレコーディング・セッション。
3月7日:DjangoとAlix CombelleがフィーチャーされたBenny Carter and his Orchestra名義のレコーディング・セッション。(Swingレーベル#20としてリリース)
4月22日:クインテット物語をBBCが放送。
5月26日:BBCにて二度目の放送。
5月末:クインテットはハーモニカ奏者のLarry Adlerと録音し、パリのAlhambraに出演。
6月:Chez Florenceにクインテットが出演。
6月14日:パリにて、クインテットがDeccaレーベルの録音セッション。
6月30日:Moulin de la Galetteで行われたフランス・ホットクラブ主催の最初のGrande Nuit du Jazzにクインテットで参加。
6月23日:クインテットの英国ツアー開始。エンターテイナーのEddie Cantorと彼の財団による児童基金が主催するキルバーンのGaumont State Cinemaで特別なショーに出演した。
8月30日、9月1日、10日:ロンドンのDeccaレーベルでクインテットのレコーディング・セッション。
9月5日〜10日:London Palladiumにクインテットで出演。
9月29日〜24日:ロンドンのColiseumにクインテットで出演。
10月初旬:兵役手続きのため一旦帰仏。
10月10日:兵役手続き終わり英国に戻ってくるも、パスポートが無いDjangoとEugène Véesがドーバーで一日引き留められ、歌手Beryl Davisを伴ったマンチェスターでの最初のコンサートに出演できなかった。翌日から合流。
10月末:クインテットはパリに戻った。
11月:クインテットはA.B.C.劇場に出演した。
冬:Djangoはフランス国内を放浪。
▶ Django’s Recording Session in 1938
1939
3月初旬:Beryl Davisを伴ったクインテットでスカンジナビア経由のツアー。中旬にはパリに戻る。
3月21日と22日:クインテットでDeccaレーベルのレコーディング・セッション。
3月22日:BBCのラジオ番組「Swing Music from France」に生出演。
4月1日:パリのシャプタル通り14番地に移ったフランス・ホットクラブの新しい事務所でDjangoはDuke Ellingtonに会い、Rex Stewart(コルネット)とジャムセッションした。
4月3日と4日:Duke Ellington楽団のコンサートがChaillot劇場で行われた。
4月5日:Rex Stewart(コルネット)、Barney Bigard(クラリネット)、Billy Taylor(ベース)、そしてDjangoの編成から成るRex Stewart and his Feetwarmers名義のレコーディング・セッションがSwingレーベルのために行われた。
6月30日:クインテットでSwingレーベルのレコーディング・セッション。
7月6日:フランス・ホットクラブ主催の最後のコンサートにFreddy Johnson(ピアノ)のバンドで参加。
8月14日:クインテットがBeryl Davisと共に新しい英国ツアーを開始。キルバーンのGaumont State Cinemaに2週間出演した。
8月16日:Beryl Davisを伴ったクインテットはBBCのテレビ番組に出演。
8月18日:ロンドンのNut Houseにて、ピアニストのGeorge Shearingらとジャムセッション。
8月23日:Beryl Davisと共にFrancis WorsleyのBBCラジオ生放送に出演。
8月27日:欧州大戦勃発の報を受けてクインテットのメンバーは帰仏。しかし、StéphaneとBeryl Davisはロンドンに残った。Stéphaneは戦時中ずっとロンドンに滞在した。
▶ Django’s Recording Session in 1939
1940
冬:DjangoはPoste Parisienのいくつかのラジオ番組に参加した。また、Swingレーベルのレコーディングをしたり、夜はナイトクラブJimmy’sで演奏した。
6月:Djangoと妻のNaguineはナチスの危険を感じ、パリを捨てまだ占領されていなかった南フランスに避難した。
6月14日:ナチスドイツ軍がパリに無血入城し、30日パリ陥落。占領時代が始まった。
9月23日:Saint-TropezやCiroを含むパリのクラブがNormandieのような映画館と共に再び店を開けた。Andrée “Daidy” Boyerはフランス・ホットクラブの事務所を再開し、Djangoはクラリネット奏者のHubert Rostaingに会った。
9月26日〜10月3日:Fred Adison楽団がナチス占領下では最も最初に活動を始めたバンドだった。その楽団は、Alix Combelle、Noël Chiboust、Max Blancというフランス・ホットクラブ配下の3人のサックス奏者を擁し、ボルドーのOlympia劇場で演奏した。
10月:Daidy BoyerはSwingレーベルの4つのレコーディング・セッションを企画し、Djangoの新曲「Nuages」を録音したが、それは未発表に終わった。
10月4日〜17日:Djangoは、弟Joseph、Hubert Rostaing(クラリネット)、Francis Lucas(ベース)、Pierre Fouad(ドラム)+ Josette Daydé(歌手)から成る、新フランス・ホットクラブ五重奏団をスタートさせた。新クインテットは午後と夜に映画館Normandieに出演した。「Nuages」の初演。
10月12日〜17日:新クインテットはナイトクラブMonte-Cristoに出演した。
10月16日:夕方5時から放送されたRadio-Parisの番組「L’heure du Thé」に生出演した。
10月31日〜11月7日:歌手のNila Caraを伴った新クインテットはボルドーのOlympia劇場に出演した。
12月6日:フランス・ホットクラブ事務所の地下にバーが開設された。
12月13日:Charles Delaunay監修で新クインテットのSwingレーベルでのレコーディング・セッションが行われた。「Nuages」が録音され、Swingレーベルから後にリリースされる。
12月16日〜22日:毎夜、新クインテットがCiro’sに出演。
12月19日と21日:Salle Gaveauによって、フランスのジャズの歴史フェスティバル(Festival de Jazz Français)が開催された。Gus Viseur(アコーディオン)のバンドや、フレンチジャズのスター達によるビッグバンド、それに新クインテットも出演した。
12月24日〜翌年1月1日:新クインテットがSalle Pleyel劇場での夜会コンサートに参加した。
12月26日:フランス・ホットクラブ配下のオールスター編成でDjangoは「Festival Swing」を録音。後にSwingレーベル#91としてリリース。
12月29日:Radio-Parisのこの日の生放送で新クインテットとAlix Combelleがフィーチャーされた。
▶ Django’s Recording Session in 1940
1941
1月6日〜12日:新クインテットがCiro’sに出演。
1月27日〜2月2日:Djangoは新しいバンドを組んでパリのAmiralに出演した。一人でギター、バイオリン、トランペットを演奏した。
1月28日:Radio-ParisのAnne Mayenの番組「L’heure du Thé」にDjangoが招かれた。
2月2日:Salle Pleyel劇場でのガラ・コンサートに新クインテットとDjangoのビッグバンドであるDjango’s Musicで出演。Djangoが12本のバイオリンが加わったビッグバンドで自作の「Boléro」を演奏した。
2月3日〜9日:新クインテットがArmorialと出演契約。
2月12日:シャンソン歌手Charles Trenetと新クインテットが「La Cigale et la Fourmi」を録音。
3月2日:Salle Pleyel劇場で新クインテットのコンサート。
3月中旬:Hubert Rostaingが退団。Léo Chauliac(ピアノ)を加えた新クインテットがChez Jane Stickに出演。
3月23日〜4月10日:新クインテットがL’Avenueに出演。
4月11日〜6月11日:新クインテットが午後のティータイムにLe Doyenに出演。4月末までは毎夜Chez Jane Stickに出演。
5月10日と6月14日:Robert Bergmannと彼のジャズ交響楽団がDjangoの「Boléro」をSalle Pleyel劇場で演奏。
9月1日〜14日:映画館Normandieに、新クインテットとAndré Ekyan楽団、Gus Viseurのグループが出演。
9月11日:新クインテットでSwingレーベルのレコーディング・セッション。
9月15日〜28日: Olympia劇場に、新クインテットとAndré Ekyan楽団、Gus Viseurのグループが出演。
9月中旬〜10月初旬:Djangoは、3トランペット、1サックス及びリズムセションから成るキャバレーParis-Plageの新しいバンドの指揮をした。
9月26日:フランス・ホットクラブ配下のオールスター編成による「Festival Swing 1942」の録音にDjangoが参加。後にSwingレーベル#129としてリリース。
9月29日〜10月12日:Moulin Rougeに、新クインテットとAndré Ekyan楽団、Gus Viseurのグループが出演。
10月19日:Salle Pleyel劇場で新クインテットのコンサート。
10月31日〜11月14日:新クインテットは、毎日午後3時と午後8時にA.B.C.劇場で演奏した。
11月9日:Radio-Parisがシャンゼリゼ劇場から生放送した「De Tout un Peu」にDjangoが参加。
11月23日:Salle Pleyel劇場で新クインテットのコンサート。
12月28日:Salle Pleyel劇場にて第5回アマチュア・ジャズ・コンペが開催され、Djangoは審査員を務めた他、Michel Warlop(バイオリン)やHubert Rostaing(クラリネット)と「Swing 39」を模範演奏した。Claude AbadieのバンドとピアニストのEddie Barclayが優勝した。
▶ Django’s Recording Session in 1941
1942
1月16日〜18日:Fud CandrixのベルギーのビッグバンドがDjangoをフィーチャーして、昼夜Salle Pleyel劇場で公演。
2月13日〜20日:新クインテットはナイトクラブLe NidやAlhambraに出演した。
2月22日:投獄されたミュージシャンの支援や国家援助、連合軍の冬対策のためにSalle Pleyel劇場で開催されたスイング・フェスティバルでDjangoは演奏した。
3月13日〜4月2日:新クインテットで、Le Nidで昼夜二回演奏。
3月31日:新クインテットでSwingレーベルのレコーディング・セッション。
4月3日:興行主のEugène Grunbergによる新クインテットのベルギー・ツアー開始。
4月4日〜6日:Salle Pleyel劇場で、DjangoはFud Candrix楽団と演奏。
4月16日:ブリュッセルでDjangoをフィーチャーしたFud Candrixのビッグバンドの録音。
5月8日:ブリュッセルでDjangoをフィーチャーしたStan Brendersのビッグバンドの録音。
7月3日〜31日:Djangoは毎日午後3時と午後8時にA.B.C.劇場に出演した。
8月15日:アメリカのジャズ雑誌Down Beatが、Djangoが死亡したと誤報した。
秋:新クインテットは、モンペリエ、ニーム、ニースを含む南フランスをツアーした。それからアルジェリア公演に向かった。
12月6日:アルジェリア公演が中止になった新クインテット、Hubert Rostaingの替わりにAndré Lluisをクラリネットに迎えてSalle Pleyel劇場に出演。
▶ Django’s Recording Session in 1942
1943
1月1日:Robert Bergmannのジャズ交響楽団がDjangoの作品をSalle Pleyel劇場で演奏。
1月3日:Salle Pleyel劇場で開催された第6回アマチュア・ジャズ・コンペにおいて、クラリネット奏者のGérard Lévêqueが最優秀ソロイストとしてJo Bouillon賞を受賞。
1月:DjangoはLévêqueを雇い入れ、バンドを2クラリネット編成にした。新クインテットはこの月を通してエトワール劇場に出演した。
2月:DjangoはSalle Pleyel劇場近くのアカシアス通りに引っ越しした。Djangoがギターで作ったメロディやコード、編曲したものをLévêqueが記譜し交響曲「 Manoir de Mes Rêves」が完成した。この曲はGala de VariétésでJo Bouillon指揮ジャズ交響曲として演奏され、3月6日にはSalle Pleyel劇場から生放送されるはずだったが、あまりの曲の複雑さにBouillonは演奏を断った。
2月26日:新クインテットでSwingレーベルのレコーディング・セッション。
3月12日:Djangoが、A.B.C.劇場出演中のFud Candrix楽団と、パリでレコーディングセッション。
4月:新クインテットのベルギー・ツアー。
6月21日:DjangoとNaguineは中央フランスのサルブリスのロワレシェールで正式に結婚した。結婚保証人はEugène GrunbergとMarcel Rouffié。
7月7日: ビッグバンドでSwingレーベルのレコーディング・セッション。
7月末:新クインテットがMedrano Circusに出演。
9月26日:Salle Pleyel劇場で新クインテットのコンサートが企画されたが、それをキャンセルしバンドを一旦解散した。ナチスによる強制的なドイツ・ツアーを回避するためだった。
秋:Djangoと新クインテットはスイス国境近くのエクスレバンからレマン湖畔のトノンレバンに向かった。Djangoはフランスからスイスに脱出したかったが、税関職員に追い返された。
11月7日:Robert Bergmannのジャズ交響楽団がDjangoの作品をSalle Pleyel劇場で演奏。
▶ Django’s Recording Session in 1943
1944
1月初旬:Djangoはパリに戻った。
2月〜3月中旬:新クインテットの南フランス・ツアー。
3月中旬: Djangoはパリに戻った。
3月中旬〜4月末:新クインテットの北フランス・ツアー。
5月中旬〜8月17日:Djangoはパリ・ピガーレ地区のフロショー通りに引っ越した。新クインテットは、Henri Rigalの装飾で飾られたピガーレのナイトクラブLa Roulotteに毎日出演した。
6月6日:Djangoは歌手のGeorges Guétary、Mistinguett、Charles Trénetらと共に、Salle Pleyel劇場で赤十字の援助で開催されたガラ・コンサートに参加した。
この日は、連合軍によるノルマンディー上陸作戦が行われた、いわゆるD-Day。
6月8日:DjangoとNaguineの間に息子Jean-Jacques “Babik” Reinhardt(2001年11月11日没)が産まれた。
6月15日から:Djangoは、La Roulotteで、新クインテットとビッグバンドで演奏した。
6月21日:DjangoはMistinguettと一緒にカクテルパーティーをLa Roulotteで主催した。
8月中旬:Djangoは英兵Gordon W. Knappに会った。彼はMelody Maker誌にDjangoが存命で元気であることを伝えた。
8月25日:連合軍によるパリ解放。占領が終わった。
9月1日:米兵主催のパーティーと共にフランス・ホットクラブ事務所が再開された。
9月24日〜10月22日:Olympia劇場でのJack HyltonとFred Astaireのショーに新クインテットで客演。
10月1日〜11月6日:Django Reinhardt et son grand orchestreがBal Tabarinに出演。毎週日曜午後は新クインテットが出演。
11月3日:Djangoが加わったNoël Chiboust楽団がSwingレーベルに「Welcome」を録音。Djangoは「Artillerie Lourde」を録音。Delaunay’s journalsによれば、Djangoはこの曲のタイトルを「Panzer Swing」としたかったらしい。
12月4日:Salle Pleyel劇場のスイングフェスティバルに新クインテットで出演。
12月15日:慰問先のパリに向かうGlenn Millerの乗せた航空機がドーバー海峡上で行方不明になり、帰らぬ人となった。Glenn Miller以外の楽団員は先にパリに到着していた。
▶ Django’s Recording Session in 1944
1945
1月25日:Glenn Miller楽団のメンバーによるJazz Club Françaisレーベルのレコーディング・セッション。
2月初旬:Salle Pleyel劇場でのフレンチ・ジャズ・コンペでDjangoが演奏した。
2月14日:Salle Pleyel劇場でのSwing GalaコンサートでDjangoが演奏。Léo ChauliacのオルガンでDjangoの未完成ミサ曲「Messe des Saintes-Maries-de-la-Mer」の一部が演奏され、Radio Diffusion Françaiseから放送された。
3月:Djangoはマルセイユに旅行し、数ヶ月間南フランスに滞在した。春の間、カンヌに居た米空軍バンドのミュージシャンとジャムをして楽しんだ。
5月8日:ナチスが降伏し、第二次大戦が終わった。
10月:Djangoはパリに戻った。Charles DelaunayとDjangoはロンドンのStéphane Grappelliに電話し、1939年以来初めての会話をした。Djangoはオルリーの米空軍バンドとリハーサルした。
10月26日:11月4日にAFNでラジオ放送される米空軍バンドとDjangoの共演を録音。
11月6日:DjangoとAmerican Swing Band(米空軍バンドの選抜メンバー)のSwingレーベルへのレコーディング・セッション。
12月1日:AFNスタジオにて、米空軍バンドのリズムセクションとアルトサックス奏者Leslie LieberとDjangoのレコーディング・セッション。
12月7日:Djangoと米空軍バンドの共演が米CBSネットワークで放送。
12月8日:NBCネットワークのために秘密裏にAFNスタジオで米空軍バンドとDjangoのレコーディング・セッション。
12月16日:Salle Pleyel劇場にてDjangoと米空軍バンドの共演コンサート。AFN、BBC、Radio-Luxembourg、Radio Diffusion Françaiseによって録音された。
▶ Django’s Recording Session in 1945
1946
1月4日:ラジオ番組「Django Reinhardtと彼のジャズ」がBBCで放送。
1月21日:Djangoと米空軍バンドの最後のAFNラジオ放送。
1月26日:Django、NaguineとDelaunayはロンドンに渡り、1939年8月以来初めてStéphane Grappelliと対面。
1月31日〜2月1日:英国ミュージシャン3人が加わった英国版フランス・ホットクラブ五重奏団で、DjangoとStéphaneはDeccaレーベルに4面とSwingレーベルに別の4面を吹き込む。ジャズアレンジのフランス国家が含まれた。
3月初旬:Djangoはロンドンのフレンチ病院で手術を受け、数週間リハビリをした。3月8、12、22、26日、4月2、9、16日に予定されていた英国版クインテットのラジオ放送の演奏はキャンセル。
4月初旬:Django帰仏。
4月:Djangoはサックス奏者Michel de VillersとLe Rodéoで演奏した。
5月初旬:DjangoはJean Sablonと一緒 MénestrelにAndré Ekyanの演奏を聴きに行った。SablonはDjangoにアメリカに行くよう提案した。
5月7日:Salle Pleyel劇場でDjangoをフィーチャーしたAndré Ekyan楽団のコンサート。
夏:Djangoは絵画を描き始めた。
9月8日〜24日:Michel de Villers(サックス)、Eddie Bernard(ピアノ)、Alix Bret(ベース)、Pierre Brun(ドラム)という布陣の新しいDjangoのクインテットのスイス・ツアー。
10月:DjangoはバイオリニストAndré Hodeirと一緒に映画「Le Village de la Colère」のサウンドトラック製作をした。(映画は1947年に封切り)
10月29日:Duke Ellingtonの招待によりDjango渡米。
11月4日〜12月2日:DjangoはDuke Ellington楽団のスペシャル・ソリストとして米国中西部と北東部をツアー。11月23〜24日ニュートークのカーネギーホールのコンサートがハイライトだった。
12月16日〜翌年1月11日:DjangoはニューヨークのCafé Society Uptownでクラリネット奏者Edmond Hallと演奏。
▶ Django’s Recording Session in 1946
1947
2月13日:Django帰仏。
3月6日:DjangoのビッグバンドがLe Bœuf sur le Toitとの2ヶ月の出演契約を開始。Djangoの絵画、初展覧会開催。
3月18日:Stéphane Grappelliが1939年以来初めてパリに戻った。
3月26日:StéphaneとのクインテットでSwingレーベルのレコーディング・セッション。
3月27日:DjangoとStéphaneがフランス・ホットクラブ主催のNuit du Jazzに出席。
4月中旬:Djangoがビッグバンド、その後、新クインテットでBlue Starレーベルに録音。
5月:Hubert Rostaingを擁した新クインテットでベルギー・ツアー。
5月22日:新クインテットのブリュッセルでのコンサート、そして、ベルギー・ホットクラブ主催Bar du Corsoでのカクテルパーティー。
7月6日と18日:新クインテットでBlue Starレーベルのレコーディング・セッション。
7月中旬:クラリネットMaurice Meunierを擁した新クインテットで西ドイツ・ツアー。
8月25日と29日、9月7日、15日と22日、10月4日、11月8日と13日:MeunierとRostaing、Lévèqueの3人のクラリネット奏者を擁した新クインテットで、Radio Diffusion Françaiseのラジオ番組「Surprise Partie」のための録音。
10月:旧クインテットで土曜日と日曜日にChez Eddie Barclayに出演。
10月4日:Rostaingを擁した新クインテットでBlue Starレーベルのレコーディング・セッション。
11月14日:旧クインテットでSwingレーベルのレコーディング・セッション。
11月16日:1939年以来初めてのStéphaneとの旧クインテットのコンサートをSalle Pleyel劇場で開催。Radio Monte-Carloにより録音。
11月21日と28日:旧クインテットでRadio Diffusion Françaiseの番組「Surprise Partie」のレコーディング・セッション。
12月5日:Djangoはその場に居なかったが、Rex Stewart(トランペット)が彼のSalle Pleyel劇場のコンサートで、「I Can’t Get Started」の変奏をDjangoに捧げた。
12月10日:Rex StewartとBlue Starレーベルのレコーディング・セッション。
12月15日〜31日:Stéphane Grappelliを擁した旧クインテットでベルギー・ツアー。
▶ Django’s Recording Session in 1947
1948
1月15日:DjangoとStéphaneがパリのPalais d’Orsayで開催されたGrande Nuit du Jazzで演奏。
1月23日から:旧クインテットがA.B.C.劇場に1ヶ月出演。
2月28日:ニースで開催されたInternational Jazz Festivalに旧クインテットで出演。 この様子は、Radio Diffusion Française、BBC、Société Suisse de Radiodiffusion、Institut National de la Radio de Bruxelles、Radio Monte-Carlo、フィンランド国営放送、ポーランド国営放送、スウェーデン国営放送で放送された。
3月初旬:Hubert Rostaingが出演するLe Bœuf sur le ToitでDjangoはジャムした。
3月10日:旧クインテットがSwingレーベルのレコーディング・セッション。
春:Stéphaneを擁した英国版クインテットで英国ツアー。
10月3日:パリ・ホットクラブ主催の最初のJazz ParadeコンサートでDjangoとRostaingが共演。この様子は10月13日にParis Interから放送された。
11月:Djangoは日曜日にBarclay’s Clubで演奏した。
11月初旬:Hubert Rostaingを擁した新クインテットのベルギー・ツアー。
11月22日〜12月1日:Django、息子のLousson(ギター)、Rostaing(クラリネット)、Vola(ベース)、Arthur Motta(ドラム)という布陣の新クインテットで、ブリュッセルで演奏。
12月初旬:StéphaneはJoseph Reinhardt、およびPoli、Cassano、ServidaのトリオとミラノのCiro’sで演奏。
12月24日:Djangoがローマに到着。
12月25日:DjangoとStéphaneはミラノのAstoria Clubで11日間の出演契約。
12月末〜翌年1月:DjangoとStéphaneはローマのRupe Tarpea, Via Venetoに1ヶ月出演。
▶ Django’s Recording Session in 1948
1949
冬:DjangoとStéphaneはGianni Safred(ピアノ)、Carlo Pecori(ベース)、Aurelio de Carolis(ドラム)と共にイタリアのラジオ局RAIで演奏。
春:Djangoはパリ郊外のル・ブルジェのキャラバンに滞在。
4月3日:マリニー劇場で開催された1948-1949年のJazz Paradeシリーズの最終コンサートに、Bill Coleman(トランペット)らと参加。この様子は後日7月25日Paris Interによって放送された。
6月:DjangoはパリのナイトクラブでAndré Ekyanのバンドと演奏した。
夏:Ekyanを擁した新クインテットは北フランス、ル・トケのCasanovaでシーズン中演奏した。
秋:新クインテットの南フランス・ツアー。その後スイスに移動。
10月25日:ジュネーブのPalais d’Hiverで新クインテットのコンサートの後、スイス放送のレコーディング・セッション。
▶ Django’s Recording Session in 1949
1950
春:ローマのOpen GateにEkyanを擁した新クインテットで出演。同メンバーでイタリアのラジオ局RAIの放送用録音をした。
5月5日:Django、Ralph Schecroun(ピアノ)、Alf Masselier(ベース)、Roger Paraboschi(ドラム)、Toots Thielemans(ハーモニカ)というメンバーで、ローマ・ホットクラブの事務所でジャム・セッション。
5月:Benny GoodmanがローマのDjangoのバンドを聴きに来た。
6月初旬:Djangoはパリに戻り、再びBenny Goodmanに会った。GoodmanはDjangoに彼の米国ツアーに参加するよう求めた。
夏:Djangoは一時的にパリのジャズシーンから姿を消した。
9月末:Radio-Luxembourgのために、DjangoはJacques Hélian楽団と録音。
▶ Django’s Recording Session in 1950
1951
1月10日:シャンゼリゼ劇場にて、Radio-Luxembourgのために、Wal-Berg指揮国立交響楽団と共にDjangoは「Troublant Boléro」を録音。
2月:パリのサンブノワ通りにあったClub Saint-Germainでの5ヶ月の出演契約が始まった。Djangoのバンドは、サックスのHubert FolとピアノのRaymond Folを擁した。演奏はフランス国営放送の番組として放送された。DjangoとNaguine、Babikはクラブの前の通りを渡ったところにあったHôtel Montanaに住んだ。Ambassadeurに出演していたAndré Ekyan楽団もDjangoのシットインを求めた。
5月11日:Deccaレーベルのレコーディング・セッション。
夏:Djangoは、ベルギーのNew Orleans Club of the Knokke-le Zoute CasinoでピアニストのBernard Peifferと6週間演奏した。バンドのドラマーはRoger Clarkで、トランペットの“Hot Lips” Pageやベルギー人歌手Yetty Leeと共演した。
秋:Djangoはフォンテンブロー近くのサモア・シュル・セーヌに家を借りて移り住んだ。
11月17日:フランス国営放送のために、Wal-Berg指揮国立交響楽団と共にDjangoは「Troublant Boléro」を録音。
▶ Django’s Recording Session in 1951
1952
1月20日:Django、Hubert Fol(サックス)、Roger Guérin(トランペット)、Raymond Fol(ピアノ)、Barney Spieler(ベース)、Pierre Lemarchand(ドラム)でブリュッセルのRoyal des Galeries劇場でのコンサート。
1月30日:Deccaレーベルのレコーディングセッション。
春:Maurice LabroとGiorgio Simonelliの両監督による映画「La Route du Bonheur」の撮影。
4月5日:Hubert Rostaingらとラジオ番組の録音に参加。それはParis Interから4月13日に放送された。
11月2日、9日と16日:Rex映画館からのラジオ生放送「Jazz Variétés」に出演。
12月20日:Salon des VedettesにてDjangoの絵画作品展覧会。DjangoにDolly Steinerによる絵画についてのインタビューがあった。DjangoはColiseumで開かれたGrande Nuit du Jazz of 1952に居たが、演奏はしなかった。
▶ Django’s Recording Session in 1952
1953
1月15日:DjangoはArt SimmonsカルテットとParisianチャンネルのラジオ番組の録音に参加した。
1月26日から:Ringside(後のBlue Note)でDjangoはArt Simmonsカルテットと演奏。
1月30日:Guérin(トランペット)、Lemarchand(ドラム)、Hubert Fol(サックス)、Maurice Vander(ピアノ)、Pierre Michelot(ベース)らと、Djangoの作品「Anouman」を含むレコーディング・セッション。
2月1日: Rex映画館からのラジオ生放送「Jazz Variétés」にTony Proteau楽団をバックに出演。
2月28日:Hubert Folを擁したDjangoのクインテットがブリュッセルの証券取引所の大型店舗でコンサート。
3月1日:ブリュッセルのGaleries劇場でDizzy Gillespieのコンサートがあり、インターミッションの後、DjangoとHubert Folが加わり「Perdido」を一緒に演奏。
3月3日:Djangoはパリに戻り、JATPの興行で有名なNorman Granzと再会し、Djangoが1953年秋のJATP世界ツアーに加わる計画を了承した。
3月10日:Vander(ピアノ)、Michelot(ベース)、Jean-Louis Viale(ドラム)らとBlue Starレーベルに録音。この音源は(実現しなかったが…)JATPツアーのプロモーションの意味で、アルバム「The Great Artistry of Django Reinhardt」として、米国でNorman GranzのClefレーベルからリリースされた。
4月8日:人生最後のレコーディング・セッション。このDeccaレーベルのセッションはピアノのMartial Solalの初録音でもあった。
4月中旬:ジュネーブのBasel Casinoのコンサートで演奏。妻のNaguineに頭痛や指の不調を訴えた。
5月7日:Djangoは借りたキャラバンでスイス・アルプスを横断し、道すがら渓流釣りを楽しんだ。
5月15日:サモアに戻ったDjangoは、Eddie Langとのコンビを再現するつもりで全米ツアーに誘うべく、Bing CrosbyがパリでDjangoを探していることを知った。
5月16日:サモアのカフェAuberge de l’Ileで朝のお茶の時間、Djangoはテラスで倒れた。午後4時、Djangoはフォンテンブローの病院で脳出血のため帰らぬ人となった。
5月19日:Djangoは Naguine、Babik、Joseph、Négros、Roger Chaput、André Ekyan、Arthur Briggs、Bill Coleman、Pierre Michelot、Jean Bonal、Claude Bolling、Charles Delaunayらの参列の下、サモアの墓地に埋葬された。
▶ Django’s Recording Session in 1953
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